甲州光沢山青松院

 銀漢声なし 

平成16年9月号


   挨拶の「挨」も「拶」も漢和辞典によれば相手に「せまる」意味らしい。 わたしたちは普段、声をかけることによって相手との溝を埋め、 関係を迫っているのである。テレビの国際ニュースを見ていると、 外国人が肩を互いに抱き合い、顔を交差させている挨拶は まるで鼻で相手のにおいを嗅いでいるようにも見える。 昔の貧乏学生の挨拶は「飯食ったか?」だったし、かつて大阪船場の「あきんど」の挨拶は 「もうかりまっか?」であった。京都のお宅で暇乞いをすると主は 「そんなこと言わはらんとお茶漬けでも食べていきはったらどうですか」などという。 京のお茶漬けが旨いのは事実であるが、真に受けて座っていると嗤われる。 婉曲な別れの挨拶である。プロ野球の選手でヒーローインタビューの第一声で 「マイドー!」と叫ぶ選手がいた。これも立派な挨拶である。 修業道場に入門を請いに来た者には「帰れ、帰れ、何しに来たんだ、 貴様の来るところではない。」というのが新参者に対する挨拶である。 一般の家庭で遠来の友人や親戚にそんなこと言おうものなら修復不可能なまでに 人間関係が壊れてしまう。ドスのきいた声で「後で挨拶に行くからな」などと言われると 後ずさりしてしまうが、いずれにしろ、その場所、その集団、その人なりの挨拶がある。 挨拶は文化である。「人から人へ架け渡す橋はない」と西洋の実存哲学者は言ったが、 「挨拶」によって橋を架けることができる。 勝っても負けても襟を正し礼をして終わる柔道は間違いなく日本の文化である。 厳つい顔の青い目をした選手が無言で深く頭を下げる姿はなにか神秘的でさえある。 「お辞儀」という挨拶は頭を屈することにより「私」が滅し、 頭を上げることによって再び「私」がよみがえる。「無」に還り、「無」からよみがえる。 極めて東洋的である・・・。

   般若心経に「・・無眼耳鼻舌身意・・・(ムーゲンニービーゼッシンニー)」のくだりがある。 中国曹洞宗の開祖といわれる洞山良价という和尚さんは幼少の頃、お師匠さんから お経を習っていてこのくだりに来ると手を眼、耳、鼻にやり 「おかしい。ちゃんとついているのになんだこのお経は・・・」と言って お師匠さんを困らせたそうである。 「無」は説明するのに厄介である。これが「無」というものでございます、と 掌に載せて示すことができる代物ではない。しかし「無」の働きがあるからこそ 絶えずその都度この眼で新しいものを見ることができるしこの耳で音も聞くことができる。 いつまでも残像がこびりついていたり、音が永久に響いていたりするとテレビも 音楽も楽しめない。 眼耳鼻舌身意が「無」に貫徹されているからわたしたちは無事に日常生活を送れるのだ。 その洞山良价にある僧が暑さ寒さについてたずねた。禅僧間の「挨拶」は問答である。 問答で相手にせまる。相手の力を見る。商量という。

寒暑到来せば 如何にか回避せん
(暑さ寒さがきたとき、どのように回避したらよいでしょうか)

   今年のように39度、40度という暑さが来ると、「いやあ暑いですね」が 単なる挨拶ではすまなくなる。一体どうしたらいいんだと叫びたくなる。 畑の野菜もしなびる。地面も割れる。松も枯れ始める。水もやりきれない。 犬や猫もグタッとしている。冷房の効いた部屋に居ても一時のこと。 外に出れば電力消費で放射した熱の分だけ余計暑い。 洞山良价和尚は答えたのである。「何ぞ無寒暑の処にいかざる」と。 無寒暑の処。またしても「無」である。 どうして暑さ寒さのないところに行かないのですか。 「寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨」寒いときはそなたご自身(闍梨=ジャリ)が 寒いになりきり、暑いときはそなたご自身が暑いになりきればいいじゃないですか、と。

   「殺」という物騒な字があるが強意の助字である。 寒さになりきれ、暑さになりきれということだろう。 殺せというなら、寒いと嫌だ暑いと嫌だという邪念を殺すことだ。 暑さ寒さというよりそれに対する第二念第三念を取り除くことが大事だ。 寒暑は生死、苦楽、憎愛等に読み替えてもおもしろい。 わたしたちには「自意識」がある。 いらぬ心配をしたりとりこし苦労をしたり、時にはかりごとまでする。 この手前勝手な自意識があるために対象とひとつになるのを妨げる。 暑さ、寒さを避け、好き嫌いが出てきて愛憎が出てくる。 正法眼蔵「現成公案」に 「花は愛惜(アイジャク)に散り草は棄嫌(キケン)に生ひるのみ」とある。 花が散って残念に思うのも草が生えて疎ましく思うのも人間の側である。 花の方は無心に咲いて無心に散る。草が蔓延るのも無心である。 人間を嫌がらせようと思って生えるわけではない。 甲子園の球児は今日は暑すぎるので野球を止めようとは思わない。 無心に球を追いかけ汗をかく。観客もカチワリを片手に無心に応援する。 暑さになりきり暑さそのものである。汗となって暑さが昇華する処に暑さはない。

   二十四節気は処暑から白露へ移り行く。夕闇せまり、暮雲から吹き渡る風はもう秋の気配。 夜空に散りばめられた無数の星屑と一輪の名月。天の河を銀河、銀漢(ギンカン)とよび、 煌々と照る月を玉盤(ギョクバン)とか玉蟾(ギョクセン)と詩語した中国の人は 日本人に負けず劣らず詩情豊かな民族に違いない。 高校野球や五輪競技に沸く一方で、洪水の被害や戦禍やまぬ地域もある。 太古の昔より厭というほど人間(ジンカン)の是非を見てきた日月星辰は、 悠久の時空に人事を超越しながら今日も書かざる経を繰り返す。 ここもまた無寒暑の処である。

暮雲収盡溢清気 (暮雲収まり尽くして清気溢れ)
銀漢無聲転玉盤 (銀漢声なく玉盤転ず)







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