甲州光沢山青松院

 前後際断 

平成17年12月号


従来不失、何用追尋 (従来失せず 何ぞ追尋を用いん)
   ―はじめから見失っていないのにどうして牛を探し求める必要があろう。
(十牛図 第一 尋牛 序)

  心理学者の宮城音弥さんが亡くなられた。 戦後の心理学のブームを作り、わたしたち日本人に西洋の心理学を分かり やすく紹介してくださった方である。哲学や心理学を志す人ばかりでなく、 青年期特有の「自己探し」に夢中になった人は、たいていこの先生の 書かれた物を何か読んだのではないだろうか。たくさん著書を出されて いたころは、今では大御所である河合隼雄先生はまだ新進気鋭の学者であった。 クレッチマーが説いた人間の体型と相関する気質の分類などは、高等学校の 保健体育の教科書でも紹介されていたし、「性格」などというと何か不変の 固定的なイメージを持っていたものであったが、フロイトの精神分析の考え方、 さらに個人の無意識の奥に人類の普遍的な文化を見たユング心理学などで目から 鱗が落ちる思いをされた方は多くいるだろう。ハイデッガーなどの実存哲学の 影響を受けたグループ、ナチスのアウシュビッツの強制収用所から奇跡的に 生還した体験をもとにロゴテラピーなる心理療法を展開したフランクル、ユングの 成果の上にマルキシズムやユダヤ基督教的伝統をふまえ、仏教や中国の思想 までとりいれ「愛」を語ったエーリッヒフロムなどなど、大学の生協や大手の 書店へ行けば所狭しとばかり多種の心理学関係の本が並んでいた。現在では 圧倒的に仏教関係の書籍に凌駕されているのを思えば時代の変遷を感じざるを 得ない。漱石の小説などを援用して「甘えの構造」を著した土居健夫さんが ブレイクしたのもこの頃である。自分探しは「十牛図」や「正法眼蔵」を 参究する禅学徒だけの特権ではない。十代から二十代、三十代半ばまでの青年期は みんな自分探しの旅に出る。自己とは何ぞやと。そして旅は生涯続くのである。

   「役割性格」という言葉がある。持って生れた気質とは別に社会の いろいろな役割をこなしている間に作られてくる性格である。わたしたちは世の中 のいたるところで、その「役割」を見事にこなしておられるすばらしい人々に 出会うことができる。たとえば家庭。夫に対しては妻という役割、子どもに対しては 母という役割。その役割を果たしているうちに形成されてきて、社会もまたそうある べきだと要請する。地域で自治会長が当番で廻ってくれば自治会長という性格、 会社では中間管理職という役割。当然周囲からも「そうあってほしい」と期待されて いる部分もある。マスコミがよくやる「理想的な上司像」「夫にしたい人」などに あげられる人は少なくとも外見上はそれらに相応しく見えると言うことだろう。 野球でもポジションによって形成されていく性格、あるいはそれに向いている 性格がある。投手、捕手、内野手、外野手・・・それぞれ求められる役割がある。 俊足で守備が旨く、ヒットもたくさん打てるし状況判断も的確なイチロー選手 などは、米国では外野手としてはパワー不足であるとの指摘があるのも日米の 違いが感じられて興味深い。日本で中軸を打っていた選手が、米国で二番バッターに 徹してチームを優勝に導いたのはスマートに「役割」をこなせたということだろう。 野球は投手力であるとの指摘もある。味方のエラーに気をとられてリズムを崩して 試合を台無しにしてしまう投手も見かける。ある投手はグラブに「前後際断」と 書いている。前の一球を次の一球に引きずらないということだ。ご存知のように 道元禅師は「前後際断」について『正法眼蔵現成公案』の中で次のように書いて おられる。

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。

   前後際断。これも目から鱗が落ちる言葉である。暖を取るのに火鉢を囲むことの なくなった現在では、炭やたき木(薪)の燃えていく様子を目にすることもない かもしれない。常識的に考えるとたき木が燃えてその結果灰となる。灰はもとに もどってたき木になることはない。しかし何故ことさら禅師はこのように云って おられるのか。「灰はのち、薪はさきと見取すべからず」と。わたしたちは既成 観念や先入観にとらわれ、贈られてくるこの一瞬一瞬をいかに無駄にすごしてい ることか。安易な因果関係で世の中を見てはいまいか。時間とか空間とかわたし たちは字面で因果を理解したつもりになってはいまいか。しかし確かなのはわた したちが生きているこの一瞬一瞬なのである。この都度贈られてくるこの一瞬一 瞬はそれ自体絶対的なるものである。まことに犯しがたい。まさに法位に住して いるのである。吉田兼好が徒然草第九十二段で「初心の人、二つの矢を持つこと なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ得失なく、この 一矢に定むべしと思へ」と名人の言葉を引用しているのも前後際断である。時代 には「時代精神」があるという。鎌倉という明日どうなるかも分からない激変の 時代を生きた人にとっては「いま・ここ」というのが時代のキーワードであった のかも知れぬ。子どもに纏わる不幸な事件が多発する昨今、「子育て支援」が現 代日本のキーワードと言えはしまいか。

   平成17年にお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。本年一年ありがとうございました。







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