甲州光沢山青松院

 愛語(2) 

平成17年1月号


  「ことばは人なり、人はことばなり」ということばを 聞いたことがある。その人の使う言葉でその人物が分かるということだろう。 愛とか誠実、正義とか平和といった抽象語を大切に思う人もいれば 「こんにちは」「お元気ですか」など語りかけの挨拶を大事にする 人もいる。古典の大和言葉や詩語に最上の価値を見出す人もいるだろうし、 それぞれの人生の途上で出会った宗教者や偉人の言葉を大事にする人もいる。 しかし、わたしたちがこの世に生まれてきて初めて聞いて覚えるのは、 自分を生んでくださった母からの言葉ではないだろうか。母と幼児の様子を つぶさに観察していると、見るもの、聞くもの、触るもの・・・ 繰り返し繰り返し母親が子どもに復唱して教えている。 それはまるで母乳で赤子を育むように子どもの頭や体の奥深くに沁みこんでいく。

愛語といふは、衆生をみるに、まづ慈愛の心をおこし、 顧愛の言語をほどこすなり、おほよそ暴悪の言語なきなり。 世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、 不審の孝行あり。慈念衆生猶如赤子(衆生を慈念することなお赤子の如し)の おもひをたくはへて、言語するは愛語なり。
(正法眼蔵 菩提薩○四摂法 ※○は土ヘンに垂)

珍重のことば---「お大事に」などの挨拶
不審の孝行---目上に向って言う挨拶

  おほよそ暴悪の言語なきなり。あらあらしい 言語を使ってはならないというのである。無意識に使っている日常の言語は、 とかく軽視されがちであるが、きわめて危険な面をもっている。 言葉のやり取りで激情したり、殺傷沙汰になる事例は毎日の新聞を見ていると 事欠かない。その人が用いる言葉で交際の深浅、教養、人柄等々すべて 言葉に表れるといっても過言ではない。「仏の十戒」には不妄語戒 (嘘偽りをいってはならない)、不説過戒(人の過ちを言いふらしてはならない)、 不自讃毀他戒(己を誇り他をそしってはならない)など「ことば」に 関する心構えが示されている。妄語、綺語(へつらい、おしゃべり)、 悪口、両舌(二枚舌)など、わたしたちがともすれば犯し易い口による 災いの注意を喚起したものである。江戸時代、名主代務の役をおおせつかったが、 代官と漁民との両方の言い分の仲裁に失敗した苦い経験のあるかの良寛は、 道元禅師の「愛語」を書き写し、また実践していたことでも知られている。 一方で彼はまた多数の「戒語」も残している。

ことばの多き。口のはやき。とはずがたり。さしで口。手柄話。 人のもの言い切らぬうちにもの言う。話の長き。講釈の長き。 減らず口。人の話の邪魔をする。親切らしくものを言う。物知り顔に言う。 へつらうこと。あなどること。人の隠すことをあからさまに言う。 推し量りのことをまことしやかに言う。押しのつよき・・・

等等、その他多数が残されている。よくこんなに「ことば」についての 「戒」を集めたものだと感心させられる。「ことば」はまさに両刃の剣である。

  良寛には次の漢詩もある。


言語常易出 (言語は常に出し易く)
理行常易虧 (理行は常にかけ易し)
以斯言易出 (この言の出し易きを以って)
遂彼行易虧 (彼の行の欠け易きを遂う)
彌遂即彌虧 (いよいよ遂えばいよいよ欠け)
彌出即彌非 (いよいよ出せばいよいよ非なり)
溌油救火聚 (油をそそぎて火聚を救う)
都是一場痴 (すべてこれ一場の痴)

  「いよいよ遂えばいよいよ欠け、 いよいよ出せばいよいよ非なり」などはまるで日本が外交交渉をしている 隣国のことをいっているようである。しかし言行の不一致は政治だけの 問題ではない。わたしたち自身の問題でもある。ヒトが母から「母乳語」を 習得した後、抽象的な言葉や観念語を覚え始めたときから「言」と「行」の 分裂は始まるといっていいだろう。言葉を過信してはならない。 道元禅師は次のように示しておられる。

この仏道、くはしく参学功夫すべし。得道入証は、 かならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。(正法眼蔵 海印三昧)

  だからこそ一層「ことば」を愛さねばならないのである。







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