甲州光沢山青松院

 狐さんこんにちは 

平成17年6月号


  冬の間はあまりみかけることのなかった子供たちも、 ヒキガエルが産卵し、おたまじゃくしが池の中を泳ぎまわるように なるころからどんどん姿を見せだした。沢蟹やアメンボーを無心に 追っかけている様子が微笑ましい。遊んでいただくのは結構だが、 大きな野犬が幾匹も出没しているので危険である。小さな子供も たくさんいるので、市の環境センターから捕獲檻を借りてきて仕掛けた。 すると、どういうわけか子狐がかかった。かなり痩せているが間違いなく 狐である。餌が欲しかったのだろう。ふいの珍客に子供たちが喜んだのは いうまでもない。大騒ぎである。そういえば二、三年前の夜、藪から ふっと出てきた狸に遭遇した。闇夜で眼の錯覚かなと思ったことも あったが、後日、他の人から聞いたところ、狸が血を流しながら 墓地の間を走り抜けているのを見たという。他の動物にでも襲われたのか。 その前はつがいの雉も見かけたし、七、八年前まではホーホーと鳴く フクロウもいた。すぐ上の新しく開発された道路で熊が歩いていた ことも新聞に報じられたことがあった。自然が残るのは結構だが、 子供たちには危険のないように遊んでいただきたい。国は「子育て 支援」と声高に叫び、いろんな施策をほどこす。しかし、小動物と無心に なって遊ぶ子供をみていると、このような環境を壊さないように努力 していくことも必要なのではないかと思う。さて、檻の中の子狐は 鳥獣センターに引き取っていただくことにした。センターでしばらく 飼ってから山へ戻すとのことである・・・。



大修業底だいしゅうぎょうてい の人、 かえって 因果いんがに 落つるや た無しや
(従容録八則、無門関二則)

(大いに修行を積んで大悟徹底した人でも因果の道理に随わねばならないのか)

  禅のテキストには狐さんのお話も出てくる。 あるお寺で和尚さんが説法をしていると、一人の老人がほかのお坊さんと 一緒に説法を聞いている。来る日も来る日も一緒に聞いて帰るのだが、 ある日一人だけ帰らない。和尚さんが、「あなたはどなたですか」と たずねたところ、「はい、わたしは人間の顔をしておりますが、実は 人間ではなく狐でございます」という。ここまでは何かユーモラスで なかなか牧歌的である。まるで宮沢賢治の物語でも読んでいるような 気がする。話はこれから例によってコムツカシクなる。

  話を聞けば、この老人はその昔、このお寺で住職を していたという。あるとき修行者から「一生懸命修行をして悟りを 開いても、因果の法則、因果の道理から抜け出ることはできませんか。」と たずねられ、「不落因果(大悟した人は因果に落ちない)」と答えて しまったという。その結果このような野狐の身になってしまったと告白する のである。どうか和尚さん、私を救う一転語をください、と。

  「一転語」というのは日常生活では聞きなれないことばだが、 実際、人のちょっとした言葉で今までの心のもやもやが吹き飛んだり、 目から鱗が落ちるというか、その言葉を境にしてがらっとかわってしまう 経験が人間にはある。真理を伝える端的な一言である。そういう一転語を くださいと、老人である野狐が言ったところ、和尚さんは「不昧因果」 (因果の道理はくらますことができないよ)の言葉を与えたのである。 それで、老人は野狐の身から脱することができたというのだ。

   なかなか考えさせられる話ではある。しかし、病気で入院されて おられる方をお見舞いに行って、相手が病気になった原因をあれこれと 詮索して因果を含めたりはしない。とんでもない。そんなことをしたら 大変失礼である。医者によっても見立てが違うのである。 セカンドオピニオンということも最近ではいわれている。 妻以外の女性との浮気はよくないが、お医者さんの浮気は是非しろと 勧める人もいる。お釈迦様だってお悟りを開かれた後も悲しみに逢った時は 悲しく思い、喜びに合ったときは嬉しく思われたに違いない。 良寛様は「災難に会う時節には災難に合うがよろしく候、死ぬ時節には 死ぬがよろしく候」と仰ったが、やたら人に向ける言葉でもないと思う。 むしろ「内証」の言葉として理解する方がいいだろう。ご飯を食べて すぐ横になると「牛になる」と小さいころよく脅されたが、牛になれば 勉強もしなくていいし、がみがみ言われなくていいと思ったものだ。 それに、その方が消化にはいいというではないか。因果の道理とよくいうが、 因と果を結ぶ「縁」のほうに重きを置くべきではないか。 とはいえ、関係ないと思っていても「大安」や「仏滅」を気にする。 催し事でも当日が快晴なら、日ごろの心がけがいいから、などというが、 たまたま気に入らない人で雨でも降ろうものなら、それ見たことかと 思ってしまう。悲しきはわれら凡夫の性である。

  日中関係が最近ギクシャクしている。中国よりもインドと もっと交際すべきだと進言する政治家もいるという話だ。歴史的現実は ある意味では「不昧因果(因果肯定)」だが、「不落因果(脱因果)」の 視点から未来は開けてくる。不昧因果、不落因果は西洋の言葉では 「必然」と「自由」の問題でもあるだろう。イチロー選手は優秀な 野球選手になるべく素質を持って生まれて来たに違いないが、途上での師 との出会いや隠れた努力の領域も大であったはずである。いずれにしても わたしたちひとりひとりが各自の歴史を背負って生きている。日本も歴史を 背負って生きている。めぐり合った恋人同士は、それぞれ歩んできた過去が この日のためにあった必然であったと思うし、その必然がまた未来への 大いなる自由である。必然と自由の合体である。「野狐禅」ということば がある。悟りを開いていないのに悟りを開いていると勘違いしている輩の ことである。



くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず
(正法眼蔵、大修行)

(口先だけ仏法を学び、説いているのでは修行も悟りもありえない。)

  酒を飲んで「酔った、酔った」と言う人がぜんぜん 酔ってないこともあるし、「大丈夫、酔っていない」と言う人が 酔っぱらってる場合もある。言葉にだまされてはいけない。 行、体験、修証、わたしたちの冷暖自知それ自体に仏道はある。 仏道が認識ではなく体験的参加であることを道元禅師は現成公案の中で 次のように示しておられる。



仏道ぶつどう、もとより 豊倹ほうけんより 跳出ちょうしゅつせるゆゑに、 生滅しょうめつあり、 迷悟めいごあり、 生仏しょうぶつあり。
(正法眼蔵、現成公案)









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