甲州光沢山青松院

 ゆく秋の 

平成17年11月号


  保育所の方へお役所の立ち入り監査があり、暫く見ていなかった 書類をひっくり返し、ああでもないこうでもないと、記憶をたどりながら 何年間かの仕事を振り返る。人間の毎日は現在進行形である。特に子どもの 世界はそうである。昨日知らなかった言葉を今日覚え、また新しい体験を 積み重ねていく。甘いミルクチョコレートが好きだった子どもが少し 大きくなるとビターのチョコが美味いと言う。五感も六根も対象を 捉える力が目に見えて変化してくるのだ。その瑞々しい感性は時として 大人たちにも思わぬ発見をさせてくれる。ところで、子どもたちと いっしょに生きているこの現在進行形が、突如ある時点から過去形に なって書類をひっくり返さなければならない羽目になると時の 順序が混乱する。機械装置のように急にモードを切り替えることはできない。 記憶をたどりながら一つ一つの出来事を点から線へ繋ごうとするが、 なかなかうまくいかない。頭脳はある一定の間に処理したり整理したり する働きはきっと限られているのだ。そこで現代社会では電算機等の便利な 物に頼るのであるが、頼りすぎて患者の取り違え等の医療ミス、情報の 大量流出など大きな社会事件を起こしているのはよく知られているところである。 原点を思い出そう。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(正法眼蔵「現成公案」)

   現成公案のこの言葉は、いちばんよく知られている言葉だろう。 いったい今まで幾人の人々がこの言葉に照らされ、発心し、道を歩んで いったことか・・・。

   忙しいという字は心を亡くすと書くし、忘れるという字もまた心を亡くすと書く。 絶えず自意識に悩まされながらも適度に「忘れる」こともしていかなければ、 この現在進行形を生きることはできない。人間の性は本来無我であるからである。 その「無我」なる性があれこれ諸事にかかずらっている間に「有」我になる。 その「有」我がわずらわしくなったとき人は山を眺め、空を仰いで漂う雲を見たり、 泳ぐ魚に目をやったりする。そのときあらためて無我なる性に立ち返る。 自然がわたしたちを返照するのである。中国明代の人生指南書「菜根譚」には 次のようにある。

魚は水を得て逝きて、しかも水を相忘れ、
鳥は風に乗りて飛びて、しかも風あるを知らず。
(菜根譚後集67)

   「現成公案」は同様の消息を次のように伝える。

魚の水を行くに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへども、そらのきはなし。 しかあれども、魚鳥いまだむかしより、みづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり・・・。

   鳥が飛ぶ空も、魚が行く水も単なる空や水ではない。そこには虚空の広がりがある。 虚空を見る深い禅心がこのようなよどみのない文となる。風もまた実体なしに動く。 雲が流れるのも虚空という場所である。行く雲、流れる水。禅僧は行雲流水を 理想として生きてきた。

   書類の世界から解放され、庭へ出てみると抜けるような青空に白い雲が浮かんでいる。 地上から四、五百メーターであろうか、鳶が二羽大きく旋回し、 ピーヒョロピーヒョロと鳴く声が十方世界にこだまする。 忙中閑有り。暫し自然の妙を楽しむ。

ゆく秋の 大和の國の 薬師寺の 塔のうえなる ひとひらの雲
(佐々木信綱)

   秋はすべてが収束し根に返っていく時期である。その秋もまたゆこうしている。 大和の國の西ノ京あたりは、きっと晩秋がいちばん美しい。







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