甲州光沢山青松院


【心の杖言葉】


エーレン、ヴエーレン

― ゲーテ、西東詩集からの言葉 ―  

 ハングリーに生きる、フーリッシュに生きる、翻訳者がご苦労されて日本語にされたジョブズの言葉はたいそう「刺さり」ます。

 さて、西洋のある神学者によりますと、私たちがこの世で結ぶ大事な原本的関係を三つあげています。

 その三つとは@男と女、配偶者、パートナーとの関係 A父と子、母と子、親子の関係 B先生と生徒、マイスターと弟子 の関係の三つです。 とりわけ、西洋、基督教圏は創世記のアダムとイブから始まる物語が始原であることを思いますと、@は至極当然でしょう。

 その昔、ゲーテやハイネの詩をご研究されておられたX先生という立派な研究者がおられました。 あるとき、表題のエーレン、ヴエーレンを黒板に板書され、目に一杯涙を浮かべて滔々と語り始めたから、教室の学生諸君はびっくりしました。 普段は気難しく、容易に人を近づけないようなオーラをいつも放っておられた方でしたからみんなびっくり。 学生諸君は与えられたプリントのヒゲ文字を追うのに苦労していて、詩の内容まで追う余裕はなかったと思います。 本来は再帰動詞としてsich ehren, sich wehren の形をとる動詞ですがここでは、EHREN, WEHREN (エーレン、ヴエーレン)として抜き出され、延々と講釈を始められたのです。 どうも、男と女、夫婦のことを述べられているようでした。 X先生という方は厳格な先生で、ご内儀もまた名の知れた絵描き、芸術家であられました。 片や文学者、片や芸術家、このお二人はいったいどのような結婚生活を送られているのか、若い学生たちはいつも興味深く密かに窺っていました。 エーレンは相手を尊重する、ヴエーレンは自分の身を護る、というのが原意ですが、そのときの訳は、「讃えあいなさい、貶しあいなさい!」と訳されたのか、「支えあいなさい、励ましあいなさい!」と訳されたのか、残念ながら記憶は明確ではありませんが、なにか、そういうニュアンスでこのゲーテの西東詩集からの言葉を訳され、これは結婚生活のことを言っているんですよとひと言添えられました。 若い学生諸君は、この詩の講釈中に先生が落涙されたお姿を見て、瞬時にご夫婦の秘密を領解したようでした。

 本園、青松院併設光の森こども園では、一昨年も、昨年も、本年も保育士の先生方は産休育休から復帰して子ども達の保育指導にあたっておられます。挙式の祝席に招かれることも屡々でしたが、長いスピーチは嫌がられますし、知らないお客様方の前ではしどろもどろになりがちです。

 新しい航海へと乗り出された若人諸君に「エーレン、ヴエーレン!」この言葉を贈りましょう。

(令和6年5月)


「大愚難到志難成」(夏目漱石)
「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」(スティーブ・ジョブズ)
「菩薩行」
「辛抱という棒を一本建てよ  忍辱(六波羅蜜)」(板橋興宗禅師)
「愛情の温度計」
「何故なし!」(シレジウス)
「罪障の山高く 生死の海深し」(柏崎 地謡より)
「時時の初心忘るべからず」(花鏡)
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(病床六尺)
「放てば手に満てり」(弁道話)
「仏道を習うというは 自己を習うなり」(現成公案)
「道は虚にとどまる 虚とは心斎なり」(荘子・人間世篇)
「至人之用心若鏡 不将不迎 應而不蔵」(荘子・応帝王篇)
「壺中日月長」
「少くして学べば 壮にして成すあり」(言志四録)
「而今の山水は古佛の道現成なり 朕兆未萌の自己なるがゆゑに現成の透脱なり」(山水経)
「過則勿憚改」(論語学而)
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」(笈の小文)
「岐路こそまさに愛すべし」(楊朱)
「朝(アシタ)に道を聞かば 夕べに死すとも可なり」(論語 里仁から)
「億劫相別而須臾不離(億劫に別れて須臾も離れず)」(大燈国師)
「苦悩を貫き 歓喜に至れ」(Beethoven)
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」(傘松道詠)
「よろこびは ひゃくぶんのいちの しんいっぽ」(虚仮子)
「人生はいばら道、されど宴会」(樋野興夫)
「念ずれば花ひらく」(坂村真民)
「生きるとは 死ぬときまでの ひと修行」
「為君幾下蒼龍窟(君がため幾たびか下る蒼龍窟)」
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」(吉田兼好)
「希望 工夫 気迫 感謝」(松原泰道)



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