甲州光沢山青松院


【心の杖言葉】


大愚難到志難成(タイグイタリガタシ ココロザシナリガタシ)

― 夏目漱石 ―  

 アップルの創業者スティーブジョブズの ”Stay hungry , Stay foolish”は多くの人に感動を与えた伝説のスピーチとして今も語り継がれています。

 深い体験から出る深い言葉は一つのワード、一つのセンテンスではなかなか表現しきれないものがあります。 ある翻訳を生業にしてらっしゃる方がスティーブジョブズの伝説のスピーチ、ステイハングリーステイフーリッシュを「ハングリー精神を忘れないで謙虚に生きよ」と訳したところ、何かが欠落している、不足感がぬぐえないと仰っていました。 翻訳や同時通訳はまことに難しいもので、即時に結果を出さなければいけません。 しかし時間がたって初めて話者の意図が分かってくる時があります。 返照回向(光)という言葉があります。 ハングリーはむしろ、学道の人貧なるべしの「貧」ではないか。 およそ「道」を尋ね求めていく人は、貪欲に生きることより先ず身を清くして、姑息な事を考えないで、謙虚に愚直に朴直に廉直に生きるべし、このことではないかと思い至ったということです。 貪から貧へ、賢から愚へ、コペルニクス的転回です。

 ♪アホやねん♪アホやねん・・・騙されたワタシがぁ〜アホやねん・・・桂銀淑さんの演歌にもありましたが、自分がアホであると自覚するのはつらいことであり難しいことです。 ある有名なエッセイストは家庭が貧しくて上級学校へやってもらえなかった。 しかし、上級学校へやってもらえなくて、アホでよかった、しみじみと述懐しておられます。 ヘタに教育をつけてもらってたら、分別臭くなり、周りのことにアレコレ白黒つけたくなり、自分はどうしようもない人間になっていたのではないかと感想をもらしていました。 また先日亡くなられた「アホの坂田」で有名な坂田利夫さんは70年代初めに自称浪速のモーツアルト、キダタローさん作曲による「アホの坂田」がささやかなヒット曲でした。 アホを全面的に出した人でした。

 表題の夏目漱石は言わずと知れた文豪であり、英文学の先生であったばかりか、漢籍にも通じ、小説よりもむしろ漢学で身を立てたかったと述懐しています。 賢い人、とても賢い人であったが故にノイローゼになり禅の悟りを求めて鎌倉円覚寺にも参禅します。

円覚曾参棒喝禅 エンガクカツテサンズボウカツノゼン

は明治43年の七絶の起句です。小説「門」にそのときの様子が書かれています。

 小説執筆のあいだの息抜きに漢詩を作ったというからたいした文才です。 「大愚難到志難成」で始まる詩は大正5年11月19日、未完の小説「明暗」執筆の頃のものです。 小説「明暗」の明暗は碧巌録に典拠をもちます。 明は個別性、暗は平等性を含意します。 明暗おのおの相対して比するに前後の歩みの如しと経文にもあります。 人それぞれ違う個性をもつ人間の集まりの中でいかにして平等なるもの、普遍的なものを探求していくか、いわば「道」の探求です。 区別はするが差別はしない― これは昨年阪神タイガースを日本一に導いた岡田彰布監督の言葉です。 私たちを取り巻く人々の集まりも然りです。 違った個性を抱えながらいかにして一つのもの(One-ness)を創造していくか。 難題であるがゆえに成し遂げたときの達成感もあります。

 表題の夏目漱石の七言律詩の全体は

大愚難到志難成 タイグイタリガタシココロザシナリガタシ
五十春秋瞬息程 ゴジュウノシュンジュウシュンソクノテイ
観道無言只入静 ミチヲミルニコトバナクシテタダセイニイル
拈詩有句独求清 シヲヒネリテクアレバヒトリセイヲモトム
迢迢天外去雲影 チョウチョウタルテンガイキョウンノカゲ
籟籟風中落葉声 ライライタルフウチュウラクヨウノコエ
忽見閑窓虚白上 タチマチミルカンソウキョハクノウエ
東山月出半江明 トウザンツキイデテハンコウアキラカナリ

痺れる作品に仕上がっています。

 ジョブスのステイハングリーステイフーリッシュは儒家的道義性、老荘流脱俗性、西欧的合理性、そして禅的直截性が凝縮したものと言えるでしょう。

(令和6年2月)


「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」(スティーブ・ジョブズ)
「菩薩行」
「辛抱という棒を一本建てよ  忍辱(六波羅蜜)」(板橋興宗禅師)
「愛情の温度計」
「何故なし!」(シレジウス)
「罪障の山高く 生死の海深し」(柏崎 地謡より)
「時時の初心忘るべからず」(花鏡)
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(病床六尺)
「放てば手に満てり」(弁道話)
「仏道を習うというは 自己を習うなり」(現成公案)
「道は虚にとどまる 虚とは心斎なり」(荘子・人間世篇)
「至人之用心若鏡 不将不迎 應而不蔵」(荘子・応帝王篇)
「壺中日月長」
「少くして学べば 壮にして成すあり」(言志四録)
「而今の山水は古佛の道現成なり 朕兆未萌の自己なるがゆゑに現成の透脱なり」(山水経)
「過則勿憚改」(論語学而)
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」(笈の小文)
「岐路こそまさに愛すべし」(楊朱)
「朝(アシタ)に道を聞かば 夕べに死すとも可なり」(論語 里仁から)
「億劫相別而須臾不離(億劫に別れて須臾も離れず)」(大燈国師)
「苦悩を貫き 歓喜に至れ」(Beethoven)
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」(傘松道詠)
「よろこびは ひゃくぶんのいちの しんいっぽ」(虚仮子)
「人生はいばら道、されど宴会」(樋野興夫)
「念ずれば花ひらく」(坂村真民)
「生きるとは 死ぬときまでの ひと修行」
「為君幾下蒼龍窟(君がため幾たびか下る蒼龍窟)」
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」(吉田兼好)
「希望 工夫 気迫 感謝」(松原泰道)



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